このページは、ボリビア国の日系社会を考えていくための資料の一つとして、ベニ県及びパンド県に在住したことのある日本人の足跡を辿るものであり、その補足的資料として、当時の日本人在住した地域の概況を添えるものである。
また、これらの地域の日本人の足跡を辿れる資料は到って少なく、今回は、次の資料を主として使用している。
- 堀内伝重遺稿「聖母河畔の十六年」堀内良平 編(1926年)
- 「五十年前後の思い出」(八木宣貞 著 1963年)
- 「新垣庸英日記」 ―ペルー入国・ボリビア・ゴム林時代・ペルー帰国まで―
- 「日本人ボリヴィア移住史」(日本人ボリヴィア移住史編纂委員会 1970)
- また、地理的な把握のためには、グーグルアースを利用している。
主な構成としては、次のようなものとした。
- 日本人海外移住略年表(全般、ボリビア関連)
- ベニ・パンド在住日本人名簿
- ベニ・パンドの各地日本人会の概要
- 日本人移住者銘々伝
- 日本人移住者関連地域
- 各地日系社会の概要
- 「聖母河畔の十六年」の足跡
- 「五十年前後の思い出」のボリビアに係る足跡
- 「新垣庸英日記」の足跡
- その他参考資料(ゴム産業略年表、アクレ紛争、チャコ戦争、マデラ・マモレ鉄道、スアレス兄弟商会、その他)
近代日本の海外移住の幕開け
近代日本の海外移住は、1866年5月21日に徳川幕府が留学生、貿易商人の海外渡航を許可したことに始まった。同年9月29日から、旅券の発給が開始された。発給官庁は、江戸の各国事務局と、神奈川、長崎、函館の各奉行所であった。
この頃の外国渡航者は、外国人の小間使いその他の奉公人として外国人に同行するものと、在日外国人の斡旋、手引き、計画などによるものが殆どであった。
そして、これらの外国渡航者が、外国で棄てられたり、酷使に遭うということが起った。中には初めから偽って連れ出されることもあった。
1867年、幕府は、このような困難民を保護するために、アメリカ人のチャーレス・W・ブルークスを在サンフランシスコ岡士(領事)に任命した。
1868年4月10日にグァム島への農業労働者42名が連れ出され酷使されたという。
1868年5月17には、ハワイへの農業労働者153名が横浜を出航した。これは、ヴァン・リードというアメリカ人の指図によって連れ出された不法出国であると言われているが、徳川幕府の許可を得ていたものであり、5月初旬に移行した新政府が認めなかったものである。 (以降は、年表参照)
ボリビア国への日本人入国
南米大陸への日本人の最初の集団移住となるペルーへの日本人移民790名を乗せた佐倉丸が、1899年4月3日にペルーのカリャオ港に到着した。
この移民たちは、配送された甘蔗耕地で、サトウキビの刈り入れ、草取り、用水路の掃除、工場労働などに就労した。
だが、言葉は通じず、慣れない作業であるために、監督との衝突が起ったという。また、慣れない気候のため、マライアの罹患者を始めとする病人が増え、最初の2か月間に45人の死者をだしたという。
4ヶ月を経過した8月末には、各耕地からの逃亡者や追放者が321人に達し、その多くがカリャオ港に集まったという。
森岡移民会社の在リマ責任者の田中貞吉は、この耕地を出て来た移民の内91名に2名の監督をつけて、ボリビア国ラパス県ラレカハ郡のマピリ川流域のサン-アントニオのゴム園へと送った。
彼等が就労地となるゴム園に到着したのは、1899年の9月23日であるといい、この移民たちが、ボリビア国へ最初に入国した日本人ということになる。
この移住者たちは、翌1900年12月に、それまでの数名の死者と、ソラタとラパスに各1名の残留希望者を残してペルーへと引き上げた。
ペルー・アマゾニア地域のゴム林への日本人移民の就労
1905年12月にペルー・アマゾニア地域タンボパタ河畔のアスティリェロにあったインカ・ゴム会社に12名の日本人が雇われた。
1907年2月12日にカリャオ港に到着した笠戸丸の明治殖民会社の契約移民の内100名がタンボパタ地域のゴム林への契約移民であった。
この頃から、ペルー・アマゾニア地域のゴムの景気に誘われて日本人移住者がこのアマゾニア地域にも入るようになり、その中の一部の移民がボリビア国内のゴム林やリベラルタの町などにも入って来た。
これらの移民たちが当Webサイトの中心である。