ボリビア日系社会の歴史と概況
各地の日系人数
県 | 地域 | 日系人数 |
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パンド県 | コビハ市周辺 | 1,000名 |
ベニ県 | リベラルタ市周辺 | 7,000名 |
トリニダ市周辺 | 1,300名 | |
ルレナバケ周辺 | 500名 | |
グアヤラメリン周辺 | 300名 | |
ラパス県 | ラパス市周辺 | 800名 |
サンタクルス県 | オキナワ移住地 | 850名 |
サンフアン移住地 | 750名 | |
サンタクルス市周辺 | 700名 | |
その他の地域 | コチャバンバ、オルーロ他 | 800名 |
合計 | 14,000名 |
人数はおおよその数です。
日本人移住の歴史
ゴム景気に引き寄せられた者(1899年~1920年)
1899年第一回ペルー移民790名の内、ボリビアのゴム園での就労のためソラタ経由ナピリ川沿いに越境した男子93名(監督兼通訳者の2名を含む)が日本人ボリビア移住者の嚆矢とされている。1908年頃からペルーのプエルトマルドナド経由でリベラルタ周辺のゴム園に多くの日本人が入ったと言われている。ゴム景気はマレー半島でのゴム植林と第一次世界大戦終了(1917年)で消滅したが、その間、パンド県コビハ、ベニ県リベラルタ、カチュエラ・エスペランサに入植した者の人数は2,000名に達したとみられている。
ゴム景気消滅後は、ブラジルナッツ採集、農業、小規模商店経営に移行する者や、その大部分はトリニダ、コチャバンバ、ラパス、オルロ、サンタクルスなどの都市及びアルゼンチン、ブラジル、ペルーなどの他国に再移住したり、日本に帰国する者いた。ボリビアに残った者の殆どは現地女性と結婚し、農業や商業に従事、現在五世まで誕生している。これら日系人の暮らしは全般に貧しく、対日出稼ぎを望む者が多いが、戸籍など散逸してしまった者も多く、書類不備のため出稼ぎを実現できない者が多数いる。
鉄道敷設現場作業員として入国した者(1910年前後)
1910年代、鉱産物積み出しのための、ボリビア、ペルー、チリに於けるアンデス高地鉄道建設ブームの頃、ボリビアで鉄道工事関係の仕事に従事した者が、蓄えた小資本でラパス、オルロ、コチャバンバ、ポトシなどに雑貨店、床屋、飲食店等を開店して定住していった。
西暦 | ボリビア日本人移住史 | 移住史に関連する事項 |
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1899 | 最初の移住者がラパス県に到着する(9月23日) | 第一回ペルー航海移住者がカリャオ港に到着(4月3日) |
1903 | アクレ戦争が終結し、アクレ地方の大部分がブラジルに割譲される。 | |
1904 | ボリビアがチリに太平洋岸割譲する。 日露戦争(~1905) パナマ運河着工(~1914) |
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1907 | 「マデイラ=マモレ鉄道」の敷設工事が開始される(~1912) | |
1908 | ベニ県とパンド県に最初の日本人が入る(*) | |
1910 | 八木宣貞が30名の沖縄出身者を率いてボリビアに入る | 日本、韓国併合 |
1911 | リベラルタで最初の天長節が祝われる | |
1914 | 日本とボリビアが通商条約を締結する 第一次世界大戦が勃発する(~1917) 「マデイラ=マモレ鉄道」の延長工事が開始される〔8月に中止〕(1月) |
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1915 | 「リベラルタ日本人会」創立(2月15日) セナで日本人会が創立される(*) | |
1017 | 「トリニダ日本人会」創立(*) 新垣庸英がボリビアに入る | |
1918 | 赤嶺亀がサンタクルスに入る | ビクトル・ムニェス・レイエスが初代駐日ボリビア公使に就任する 第一次世界大戦が終結する |
1919 | 在チリ日本国公使がボリビア公使を兼任するようになる | |
1922 | 「ラパス日本人会」が創立(6月11日) | |
1923 | トリニダで「日本人商業組合」が結成される(*) | |
1925 |
リベラルタ日本人協会が分裂し、「リベラルタ中央日本人会」が結成される(3月15日) ボリビア独立100周年記念式典に各地の日本人会が参加する(8月6日) 「コビハ中央日本人会」が創立される |
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1927 | ラパス日本人会創立5周年記念祝賀会が行われる | |
1928 | リベラルタ日本人協会とリベラルタ中央日本人会が合併し、再び「リベラルタ日本人協会」となる(1月19日) | |
1932 | ラパス日本人会創立10周年記念祝賀会が開催される(この時、会館建設敷地1000平方メートルを購入) | チャコ戦争が勃発する(~1935年) |
1935 | ラパス日本人商業組合が結成される(*) | |
1936 | リベラルタで日本語教育が開始される(*、1939年頃まで) | 在ペルー日本国公使がボリビア公使を兼任するようになる |
1940 | ラパスに日本国公使事務所が設置される |
(*)正確な年月日は不明であるが、その頃であると記録に残っている。
第二次世界大戦(1941年~1945年)
錫、銅、鉛、アンチモニー、タングステンを中心とする軍需鉱産物の産出国であるボリビアは、米国の圧力に押されて1942年日本に宣戦を布告。日本人貿易商等は資産凍結、在米収容所抑留などの措置を受けた。1945年の終戦後米国テキサス州に抑留された29名の内、終戦時22名が日本に帰還7名がボリビアに戻った。
西暦 | ボリビア日本人移住史 | 移住史に関連する事項 |
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1941 | ラパス日本人会が会館を購入する | 第二次世界大戦が勃発する |
1942 | ボリビアが第二次世界大戦に参戦し、日本とボリビアの国交が断絶される 在ラパス日本国公使事務所の駐在官らが国外退去させらる |
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1943 | リベラルタ日本人協会が解散する(3月5日) | |
1944 | ボリビア在住の日本人29名が米国に抑留される | |
1945 | ラパス日本人会が活動を一時休止する(4月22日) | 第二次世界大戦が終結する |
1946 | 米国に抑留されていたボリビア在住日本人のうち7名が帰還する | ボリビアで市民革命評議会が成立する |
1947 | 海外移住協会設立 | |
1948 | ラパス在住の沖縄出身者が「ラパス市沖縄救援会」を組織する(8月) リベラルタ在住の沖縄出身者が「リベラルタ市沖縄戦災救援会」を組織する(11月) |
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1950 | 「リベラルタ市沖縄救援会」が「うるま農産業組合」を結成する 「リベラルタ日本人会」が創立される(1月10日) |
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1951 | うるま移住計画による最初の入植者がリベラルタ市から移住する | サンフランシスコ日米講和条約が調印される 外務省欧米第二課に移民班が設置される |
(*)正確な年月日は不明であるが、その頃であると記録に残っている。
農業移民として来た者(1954年~1992年)
第二次世界大戦後の日本及び米軍占領下の沖縄に於ける農地・雇用問題への対応策のひとつとして、また九州・北海道に於ける炭鉱失業者救済措置、及び、将来に賭ける夢を求めて、ボリビア東部サンタクルス市北部への農業移民が計画された。
沖縄からは現在のオキナワ移住地に1954年より1988年まで49次に亘り584家族と単身移住者合計3,385人が入植した。2001年12月現在238戸828名が定住しており46,890ヘクタールを所有している。主要産物は大豆・小麦・米・トウモロコシ・モロコシ(コーリャン)・ひまわり・食肉等。
沖縄以外の日本各地から現在のサンファン移住地に1955年より1992年まで53次に亘り1,679名が入植した。2001年12月現在242戸754名が定住しており27,132 ヘクタールを所有している。主要産物は米・大豆・鶏卵・柑橘果物・食肉・マカダミアナッツなど。鶏卵ではボリビア市場の35%、ラパス市場の60%を供給している。
オキナワ・サンファン両移住地共に入植当初、日本・ボリビア両政府は、移住地としての農地の整地、道路建設、ライフラインなどの基本的インフラストラクチャーを整備することなく、原生林の真っ只中に移住者を置き去りにしたため、移住者はとてつもない辛酸をなめさせられ、耐えられずに離農したもの4分の3に達したという。離農者は近くのサンタクルスや首都ラパスなどの都市に出た他、アルゼンチン・ブラジルなどに再移住していった。その後、日本の援助により医療、教育面の整備がすすみ現在に至っている。両移住地共に農牧業を営んでいるが、2004年に予定されているボリビア農産品のメルコスール市場への参入に伴いアルゼンチン・ブラジル両国より安価な農畜産物が流入した場合の対策を考えておく必要がある。
日本の高度成長期以降の移住者
日本に於ける生活が豊かになるにつれ、生活向上や夢を求めての移住者は激減した。一方、日本に於けるライフスタイルの多様化により、ボリビアに於ける生活に魅せられる者が出て来て、JICA青年海外協力隊や日系社会青年ボランティア経験者などの若年層を中心にボリビアに定住する者が出て来つつある。
戦前からの移住者総数は約6,600人、混血をも含めた日系人の人数は14,000人程度とみられている。
西暦 | ボリビア日本人移住史 | 移住史に関連する事項 |
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1952 | 「ラパス日本人会」が活動を再開する(3月30日) ペルー出身の日系二世45名が新垣詣庸英に率いられてボリビアに集団移住する |
ビクトル・パス・エステンソロが率いる国民革命運動党(MNR)がボリビア革命を起こす |
1953 | うるま移住計画に対して国有地1万ヘクタールの払い下げが認可される ラパス市で「ボリビア中央沖縄人会」が結成される |
日本とボリビアの国交が再開される ボリビアで農地開放が着手される 外務省欧米局第二課移民班が移民課に昇格する |
1954 |
「うるま移住地」に計画移住者の第一陣が入植する(8月) 西川利通がボリビアに入国する(9月) ラパス市で「ボリビア移住促進組合」が発足する(*) 「サンタクルス日本人農業協同組合」が設立される(10月) 「うるま病」が発生する(10月) |
財団法人「日本海外協会連合会」(海協連)が設立される 「日本ボリビア協会」が設立される |
1955 | 西川計画移住者がサンフアン移住地に入植する(7月) うるま移住者が「うるま病」によりパロメティーリャに転住する(8月) |
ラパス市に日本国公使館が開設される 外務省欧米局移民課が移民局に昇格する |
1956 |
パロメティーリャの移住者が現在の「オキナワ第一移住地」に再転住する(7月) 「ボリビア政府と日本国政府との間の移住協定」が締結される(8月2日) 「サンタクルス日本人農業協同組合」が解散する(8月) 「サンタクルス日系人会」が創立される(9月) 小森幸一によりラパス市に日本語教室が開かれる |
外務省が「移民」という呼称を「移住者」に改め、移民局が「移住局」となる |
1957 | サンフアン移住地に第一次計画移住者が入植する(6月) 「サンフアン農業協同組合」(仮称)が設立される(8月) |
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1958 | 「サンフアン農業協同組合」が「ヤパカニ希望農業協同組合」と改称される(5月) | |
1959 | オキナワ第二移住地に最初の入植者が入る(4月) サンフアン連合青年会が結成される(11月) |
琉球政府ボリビア駐在事務所がサンタクルス市に設置される(1月) ボリビア移住促進組合が解散し、海協連のサンタクルス支部が設立される(4月) |
1960 | サンフアン移住地市街地建設計画の第一期工事が完了する(3月) サンフアン移住地で「第一次市街地完成祝賀・入植記念祭が行われる(8月)」 |
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1961 | 「サンフアン高校」が開校する(3月) ラパス日本人会がラパス市の孤児収容施設「子供の街」に日本館を建設し、ラパス市に寄付する サンタクルス市営墓地内に日本人共同墓地が建設される |
在ラパス日本国公使館が大使館に昇格する(10月) |
1962 | 「ラパス火曜会」が設立される オキナワ第三移住地に最初の入植者が入る(4月) |
サンタクルス市に日本国領事事務所が開設される(10月) 「海外移住家族会全国連合会」が設立される |
1963 |
サンフアン移住地に「後期小学校」が開校する(7月) サンフアン移住地で組合の精米所が創業する(7月) 「ヤパカニ希望農業協同組合」が「サンフアン農業協同組合」と改称される(8月) サンフアン移住地に第17次計画移住者が入植し、これが最後の計画移住となる(8月) |
「海外移住事業団」が設立される(7月) ボリビアの通貨が「ボリビアーノ」から「ペソ・ボリビアーノ」に変更される |
1964 |
リベラルタの慰霊塔とコビハおよびトリニダの慰霊塔が完成する(3月) 「サンタクルス日本人移住地生産物販売連合委員会」が発足する〔10月に業務停止〕(3月) オキナワ移住地に最後の琉球政府計画移住者が入植する(6月) オキナワ移住地で入植10周年記念式典が開催される(8月) サンフアン移住地で「サンタクルス産業組合」が結成され、サンフアン農業協同組合が分裂する(11月) 「サンフアン高校」が閉校する(12月) ラパス日本人会がラパス市営墓地内に日本人共同墓地を建設する |
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1965 |
オキナワ第二移住地の中央病院が完成する(1月) 自治体「サンフアン村」が発足する(1月) サンフアン移住地で「サグラド・コラソン高校」サンフアン分校が開校する(2月) 「コロニアオキナワ農業共同組合連合会」が設立される(2月) サンフアン移住地で幼児教育が開始される(10月) |
ブラジルのサンパウロで第一回南米日系人大会が開催される |
1966 |
サンタクルス日本語学校が設立される(1月) サンタクルス日系人会が創立10周年の記念事業として会館および会館用地を購入する 「サンフアン営農改善機会利用組合」が設立される(5月) ラパス日本人会館の改修工事が開始される(69年に完了) |
「マデイラ=マモレ鉄道」が廃線となる |
1967 |
ラパス日本人会が「ラパス日本人会日系子弟教育教室」と「ラパス日本語普及学校」を開設する サンタクルス日系人会が「サンタクルス中央日本人会」と改称され、法人格を取得する サンフアン移住地に「光望学園」が開校する オキナワ移住地が琉球政府から日本政府に移管される 日ボ移住協定が沖縄出身の移住者にも適用されるようになる トリニダ日本人会が解散する(12月31日) |
海外移住家族会全国連合会が「日本海外移住家族連合会」と改称され、法人格を取得する |
1968 |
海外移住事業団沖縄事業所が開設される(2月) 「サンフアン営農改善機械利用組合」が「サンフアン農業共同組合」に吸収される(10月) サンフアン移住地で日本政府・ボリビア道路公団・アメリカ海外援助協力機関による0キロ地点~市街地の砂利要れ舗装工事が完了する(10月) |
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1969 | オキナワ移住地の貫通道路が完成する(3月) サンフアン移住地の光望学園が閉校する(10月) サンフアン連合婦人会が結成される |
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1970 | サンフアン移住地で入植15周年祭が開催される(7月) | |
1971 |
コロニア沖縄農業協同組合連合会が「コロニア沖縄農牧総合協同組合」(CAICO)と改称され、法人格を取得する(8月) 「サンフアン農業協同組合」が「サンフアン農牧総合協同組合」(CAISY)と改称され、法人格を取得する(12月) |
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1972 |
「トリニダ日系人会」が創立される(3月19日) サンフアン移住地の小・中学校が「サグラド・コラソン校」から「フェ・イ・アレグリア校」に移管される(3月) オキナワ移住地の繰綿工場が完成する(4月) ラパス日本人会創立50周年記念式典が開催される |
南米移住船「ぶらじる丸」が最後の航海を行う 沖縄返還 |
1973 | 「サンタクルス州日本ボリビア文化協会」が創立される(5月) サンフアン農牧総合協同組合の飼料配合工場が創業する(7月) |
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1974 | 「国際協力事業団」が設立される(8月) | |
1975 | サンタクルス市の学生寮が完成する ラパス市に日本庭園が造園される |
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1976 | リベラルタで二世を中心とした「リベラルタ日本ボリビア文化センター」が創立される 国際協力事業団が日系子弟向けの奨学制度を開始する(5月) |
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1977 |
サンフアン村役場が「サンフアン・デ・ヤパカニ日本ボリビア協会」と改称される〔8月には法人格を取得〕(4月) CAISYがラパス市で鶏卵の直営販売を開始する(5月) リベラルタで日本語教育が再開される |
青年海外協力隊に関する協定が日本とボリビアの間で締結される |
1978 | オキナワ移住地で「コロニアオキナワ日本ボリビア協会」が創立され、法人格を取得する CAISYのサンタクルス市事務所の落成式が行われる(2月) |
日本とボリビアの間の技術協力に関する協定が締結される |
1979 |
ラパス市でボリビア日本人移住80周年記念式典が開催される 河合辰夫による日系子弟向けの奨学金「河合資金」が設立される(4月) オキナワ移住地で入植25周年式典が開催される(8月) サンフアン移住地の市街地と幹線道路沿いの電化工事が終了する(11月) サンフアン移住地に5基の公衆電話が設置される(12月) |
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1980 |
「リベラルタ日本人会」が「リベラルタ日本ボリビア文化センター」に吸収される(5月5日) サンフアン移住地で深井戸掘削工事が開始される〔82年までに180基の深井戸が掘られる〕(8月) サンフアン移住地にメルカンティル銀行が開行する(9月) 「サンタクルス州日本語教育研究会」が設立される(3月) サンフアン移住地入植25周年式典が開催され、サンフアン日ボ協会の新事務所の落成式が行われる(12月) |
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1981 | オキナワ移住地の繰綿工場が閉鎖される 「ラパス日本人会日系子弟教育教室」が「ラパス補習授業校」と改称される サンフアン移住地にガソリンスタンドと公民館が完成する |
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1982 |
オキナワ移住地の電化工事が完了する(11月) サンファン移住地で「フェ・イ・アレグリア校」に代わり、「ドンボスコ校」との契約が交わされる(11月) サンフアン移住地の支線道路沿いの電化工事が完了する(12月) |
ボリビアでハイパーインフレーションがはじまる |
1983 |
「全ボリビア日系団体連絡体系」創立される サンフアン移住地で「ボリビア柔道選手権大会」開催される(7月) 「ボリビア国日系人学術調査隊」がボリビア各地で調査活動を行う(7月~9月) サンタクルス日本語学校に中等部が設置される |
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1984 | サンタクルス市に、日本の援助によって建設された「ビルビル国際空港」が開港する | |
1985 | サンフアン移住地で入植30周年記念式典が開催される(7月) | 国際協力事業団の「海外開発青年制度」と「移住者子弟上級研修制度」が発足する |
1986 | サンフアン移住地で成鶏用ゲージ5万7000羽分を導入する(1月) サンタクルス中央日本人会が創立30周年記念式典を開催する サンフアン移住地で新飼料工場と鶏病センターが完成する |
サンタクルス市の「日本病院」が落成する |
1987 | 「サンフアン学園」が開校する(2月) 「ルレナバケ日本ボリビア文化協会」が創立される(6月25日) サンフアン移住地16キロ地点以南の電話架設工事が完了する(7月) |
ボリビアの通貨が「ペソ・ボリビアーノ」から「ボリビアーノ」に変更される |
1988 | 全ボリビア日系団体連絡体系が「全ボリビア日系連合協会」と改称される | |
1989 | ラパス市で日本人ボリビア移住90周年記念式典が開催される サンタクルス市で二世会「Fraternidad Fuji」が発足する |
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1990 | 「入管法」が改正される(6月) | |
1991 | オキナワ移住地およびサンフアン移住地の国際協力事業団事業所が閉鎖される(3月) オキナワ移住地全域の電話架設工事が完了する(6月) サンタクルス日本語学校に普及クラスが開講する |
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1992 | ボリビアの地方自治体選挙で、移住地の一世たちにはじめて選挙権が認められる サンフアン移住地全域の電話架設工事が完了する 「スーパーオキナワ」が開店する |
沖縄県とサンタクルス県の姉妹協定が締結される |
1993 | 「オキナワ村」の設立に向けた最初の村長選挙が実施される | |
1994 |
サンタクルス州日本ボリビア文化協会が「サンタクルス州日本ボリビア協会」と改称され、法人格を取得する オキナワ移住地で入植40周年記念式典が開催される サンタクルス市で第一回日本語能力試験が実施される サンフアン日ボ協会のサンタクルス事務所が落成する(8月) |
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1995 |
国際協力事業団の第9回汎米日本語教師合同研修会がサンタクルス市で開催される(1月) サンタクルス市の日本人共同墓地が増改築される サンフアン移住地で入植40周年記念式典が開催される(8月) |
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1996 |
「ボリビア日本人移住100周年記念祭典準備委員会」が結成される 全ボリビア日系連合協会がはじめて全国会議を開催し、「ボリビア日系協会連合会」と改称される(2月) 「トリニダ日系人会」が法人格を取得する(4月12日) サンタクルス中央日本人会が創立40周年記念祭典を開催する(10月30日) |
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1997 | 「ボリビア日本語教育研究委員会」が発足する 「グアヤラメリン日系人会」が創立される(6月) |
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1998 | サンタクルス中央日本人会の日ボ交流会館が完成する(2月) 「オキナワ村」の設立が認可され、オキナワ第一移住地で祝賀会が開催される |
コビハ市の「日本病院」が落成する |
1999 |
サンタクルス市でボリビア日本人移住100周年記念式典が開催される(6月3日) ボリビア日系協会連合会が法人格を取得する サンタクルス州日本ボリビア協会がボリビア日系協会連合会に吸収合併される 各地でNHKの衛星テレビ放送が受信できるようになる |
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2000 | 「オキナワ村」が発足する(1月) ボリビア日系協会連合会とボリビア日本語教育委員会主催の第14回汎米日本語教師合同研修会がサンタクルス市で開催される(1月) |
日本人移住100周年誌「ボリビアに生きる」より